飛行機

2023年11月某日

 秋晴れのお昼ごろ、大学の課題が嫌になったので、近所の公園まで散歩に出た。つぶれたギンナンまみれのイチョウ並木の道を、鼻をつまみながら通り過ぎ、脇道を入ってまた進み、お気に入りの丘を頂上まで行く。そこでシートも何も敷かず、芝生の上にそのまま寝転んだ。

 空を見上げると、雲一つない。薄い青が単調なので、空の奥行きが分からない。巨大すぎる、途方もないキャンバスに絵の具だけ塗ったのが、こちらに向かって迫ってくるように思える。見ていてなんだか息苦しい。雲一つない青空なのに、それがなんだか息苦しい。何でも良いから、この単調な青絵具まみれの中に、何か変化が欲しいと思う。そこに飛行機が通った。低いところを横断するので、機体の腹の様子がやけに鮮明に見える。車輪を格納しているところもだいたい見当がつくほどである。だが音はそれほどうるさくない。

 飛行機はそんなに得意ではない。僕は飛行機と言えば、エコノミークラスの狭苦しい空間にぎゅうぎゅう詰めになり、気に障るんだか障らないんだかはっきりしない「ヴ―ン」という機体の音を聞きながら、シートから発せられる新品服のようなにおいに鼻をしかめ、ついでに隣に座っている外国人カップルが手をつなぎながら窓外の景色を見ている様子に眉もしかめ、憮然とした面持ちでモニターの画面をいじり、宇多田ヒカルの「Play a Love Song」を離陸前に初めて聴いて興奮し、「なんだかんだ飛行機というもの悪くない」という上から目線の感慨でドイツ旅行からの帰国の途に就くという、そんな下らない思い出しかない。

 さっきから5分おきくらいに、ひっきりなしに飛行機が空の同じようなところを飛んで行く。みんなそんなに旅行に行きたいのか。思うに、今はるか上空を飛んでいる飛行機の中でお行儀よく座席についている人たちよりも、こうしてだだっ広い丘の頂上に一人寝転んでその飛行機を見ている僕の方が、心持ちがよっぽど気楽で自由である。空を飛んでいるのだからその分心持ちも自由であるというのは間違いである。この原っぱこそ自由である。狭い機内とは雲泥の差である。ご搭乗のお客様一同、いかがだろう、僕が羨ましいかな?しかしこういうことを考えながら飛行機を見上げている僕と、ご搭乗のお客様一同の精神的成熟度の差は、その物理的位置の構造のままで、雲泥の差である。

 なんだかやるせなくなってきた。そのままそこで少しふて寝して、起きて、丘の頂上の近くにあるやせこけた淋しい感じのするアカマツをしばらく見上げてから、家に帰った。