2024年2月某日

 ある朝、所用で相模原へ向かう途中に小田急線に乗っていたら、登戸に着く直前に、向かい側の車窓から大きな川が見えた。朝の時間帯に川を眺めることはあまりないから、川が流れているという事象はいつでも変わらないのに、勝手にこちらで新鮮な気持ちがしている。

 朝8時頃の陽射しが川面に反射して、ところどころキラキラと輝いている。名前をもう忘れたが、昔好きだった某チョコレート菓子を包んでいた銀色の紙がばらまかれているように見えた。その包み紙には金色と銀色の二種類があって、僕は金色よりも銀色のほうが良い意味で「助演感」があるので、そちらの方が好みだった。しかし好みであればあるほど、主演である金色の方ばかり食べていた気がする。あえてお気に入りでないメジャーな方にばかり手を伸ばすことによって、かえってお気に入りであるマイナーな方への忠誠心を示さんという、少し考えれば不毛と分かるこだわりを、昔も今も捨てられていない節がある。不毛というのは、そもそもこのような議題に神経と紙面をすり減らすことが不毛というだけに留まらず、意中の人に対する照れ隠しのようなつもりで金色の方にばかり手を伸ばした結果、そのお菓子を食べたときの記憶を思い出すにあたっては、どうしても金色の包み紙を開いて食べて美味しかったということしか出てこない。意中の銀紙女史との思い出は全く記憶にない。むしろ一周回って、自分は金色女史の方が本命であったのではないかという気さえしてくる。諸賢、ミーハーで何が悪い。思えば先ほどの川の輝きも、クールな銀色というよりはむしろ金色の包み紙をばらまいたような、明るくて暖かなものだったような気がしなくもない。ところでチョコレート菓子に対して本命か義理かなどと議論するのは、全く目的と手段とを取り違えている。

 こんな無益なことを書きながら無為に時間を過ごしたことが因果か知らないが、いざ相模原駅に着いたら、本来向かうべきは相模大野駅であったことが分かり、交通費314円を無駄にした。